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今昔映像館

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これぞ『ゆがわら』

湯河原は万葉集に歌われた唯一の温泉地です。
万葉集十四巻三三六八
「阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓」

 あしがりの土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに 

(意訳)
「足柄の土肥(湯河原)の河内に湧き出る湯のゆらゆらと揺らぐように、決して揺らぐようにはあの子は言わないのにナァ」(引用:澤瀉久孝 中央公論社 昭和40年3月10日、十四巻、p46)

❶町立湯河原美術館(旧 天野屋旅館)

「文豪といったら夏目漱石。夏目漱石といったら天野屋」

多くの文豪や文化人のみならず政治家や軍人がこよなく愛した旅館です。
漱石の宿泊した場所は今の町立湯河原美術館の2階に上がる階段あたりです。文学を志す人のパワースポットになっています。
その他にも天野屋は世に言う「大逆事件の舞台にもなりました。1910年(明治43年)3月から「基督抹殺論(きりすとまっさつろん)」執筆のため天野屋に投宿していた幸徳秋水(1871年~1911年)は同年6月1日に湯河原停車場前(門川駅)で逮捕されました。」

❷小梅橋

「子宝を授かるパワースポット」

昭和初期から変わらない風景を保っているのが小梅橋です。
古来、この辺りは「こごめ」または「こごむ」と言われ山奥地にある温泉の意であるとも、「子込め」や「子産め」の意であるともいわれ、身ごもりや懐妊の温泉として愛されてきた由来があります。この橋に佇み子宝を授かるように願うスポットでもあります。

❸藤木橋

「与謝野晶子の橋」

与謝野晶子(1878年~1942年)は静養を兼ねて有賀精氏所有の真珠荘(湯河原の吉浜)に幾度となく訪ねていました。温泉場へ体調が優れない晶子を心配した有賀氏が中西旅館での静養を勧めました。晶子は盲腸の手術を東京の神田駿河台にある三楽病院で受けて予後が良くなかったのです。
ある日、晶子が宿に帰ろうと藤木橋に差し掛かったころ中西旅館では宴会が行われていました。
「自分の夫である与謝野鉄幹はすでに死に、私は体調が優れないにもかかわらず、同じ歌人の勲章受勲の宴会が盛大に行われている」宿には帰りたくないと藤木橋から中西旅館を見上げ、短歌へ打ち込む決意をあらたにしたのが藤木橋です。文学を志す人、特に女流作家を目指す人のパワースポットになってます。

 河鹿鳴く 箱根の嵐 及ぶなる 藤木の川の板橋のもと 

(意訳)
(箱根の峰から雨を含んだ夏の嵐が川を伝って荒々しく吹いてくる。それを早くもが察してあのように河鹿のひときわ高い鳴き声がすることだ)の歌がある。
*河鹿(かじか かじかがえるの意)

-1 万葉公園

「万葉集に歌われた草花が見られる公園」

万葉集に歌われた木や草花が植えられたことから佐佐木信綱博士(1872年~1963年)唱歌「夏は来ぬ」作詞、歌人)が万葉公園と名づけました。「日本の歴史公園100 選」に選ばれるこの公園は四季折々の情緒を味わうことができます。2021年に新設された「湯河原惣湯Books and Retreat」で川のせせらぎに耳を傾け万葉のひと時をお楽しみください。公園内には文学の小径や国木田独歩(1871年~1908年)の文学の碑があります。
「湯河原の渓谷に向かったときはさながら雲深く分け入る思いがあった 独歩」これは画家の小杉放庵(ほうあん)(1881年~1964年)が揮毫しています。
入り口左手には「万葉亭」があります。茶室や数寄屋造りの名手として鳴らした堀口捨巳(1895年~1984年)の現存する数少ない作品の一つです。
   
太上天皇御製歌一首 巻八 一六三七

 「はたすすき 尾花逆葺き 黒木もて 造れる室は万代までも」 

(意訳)
(薄の尾花を逆さにして葺き、黒木でつくったこのたてものはいついつまでもあることであらう)
引用:澤瀉久孝 中央公論社 昭和36年1月30日、8巻、p295
の趣を再現しようとしたもので草葺き皮付きの柱になっています。

-2 養生園(万葉公園)

「もしや、あれもこれも湯河原発?」

湯河原には多くの軍人や文豪に愛された大倉孫兵衛・和親父子の別荘「養生園」がありました。
乃木希典(1849年~1912年)や東郷平八郎(1848年~1934年)といった軍人をはじめ、湯河原に来た文人墨客の多くは養生園を訪れました。
その大倉親子は、「ノリタケ」ブランドで有名な大倉陶園、後のTOTO、日本碍子、INAX(現在のLIXIL)の創設者であります。
現在では多くの起業家がこの入り口に立ってパワーをもらい、たもとに立って起業成功を祈ると言われています。日本の誇れる産業が湯河原発だったのです。

❺光風荘(伊藤屋別館)

「湯河原で一つの歴史が作られた」

「1936年(昭和11年)2月26日(いわゆる2.26事件)の舞台となった光風荘は、東京以外の唯一の場所です。
襲撃にあった牧野伸顕伯爵は大久保利通の次男です。事件当時75歳。(麻生太郎元総理大臣の曽祖父)前内大臣として「天皇陛下の側近であり欧米強調である」とみられ、君側(くんそく)の奸(かん)(天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象になりました。
伊藤屋別館の光風荘を宿泊に指定してきたのは護衛がしやすかったからでしょう。河野航空大尉以下8名は東京の決起部隊と時間を示し合わせ午前5時光風荘を急襲します。
「電報!電報!」の声に警護に当たっていた皆川巡査は戸口を少し開けました。異様な訪問者の姿を見て2,3歩後ろにひるむと河野大尉たちがなだれ込んできました。
「牧野はどこだ!案内しろ!」
皆川巡査は牧野伸顕伯爵が寝ている反対方向に折れ、少しでも伯爵から離そうとします。そして振り向き様に銃弾を放ちました。ほぼ同時に河野大尉も応酬。その間に牧野伯爵はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れました。郷土歴史研究家は芸術の径に逃れたのではないかとみています。映画「226」では五社英雄監督によって詳しく再現されてます。また松本清張(1909年~1992年)の「昭和史発掘」や河野大尉の兄である河野司の多くの著書に詳しく描かれています。

❻落合橋

「ここが万葉集に歌われたところ?」

落合橋は山岳信仰の日金山(十石峠)の出発点に架けられています。
「藤木川」と「千歳川」の落ち合う場所(合流する場所)でもあります。
「 あしがりの土肥の河内に…」と万葉集に歌われた「河内」は「川の洲」という意味です。「洲」ができるのは合流するところ。この辺りが詠まれた場所ではないかと考えられます。また昔から若者が「落ち合う」場所。写真にもカップルの落ち合う姿が見受けられます。
夏目漱石(1867年~1916年)は日記に、この地について、
「湯河原の川 藤木川 合して 千歳川 向かい側ハ 伊豆」(断片69B)と記しています。
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